ライト兄弟、兄・ウィルバー(1868~1912)、弟・オービル(1871~1948)――飛行機

​AI SPEAKER

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兄のウィルバー・ライトは一八六七年四月十六日、弟のオービル・ライトは一八七一年八月十九日に生まれた。
 オハイオ州の工場町デイトンに住む牧師ミルトン・ライト師の四人の息子のうち、下の二人だった。

 1 父牧師の影響 

 ミルトン・ライト師は、アメリカ中西部の非国教徒の小さな宗教団体、連合兄弟教会(モラビア派)に属し、その監督(ビショップ)になった。
 親切で、心が広く、教養もゆたかで、善行の規則をきびしく守る人だったが、それを他人におしつけることはしなかった。 立派な蔵書をもち、子供たちに読書をすすめ、ためになることは何でもすすんでやれと教えた。
 宗教団体の長としての収入は一年でたった二百ポンド(この章では貨幣単位にドルとポンドがまじって使われているが、原文のままにしておく)ほどしかなかったから、倹約の習慣と質素の美徳をもって家族を養わなければならなかったのは自然の成行きだった。
 ウィルバーがフランスで飛行機を飛ばし、国王たちや全世界から熱狂的なかっさいをあびているときいたとき、父が一番先に満足したのは、ウィルバーが日曜日の慣例を忘れず、安息目に飛ぶことは必ず断ったこと、また喫煙の誘惑に負けなかったことだった。
 兄弟は今後その発明から金を手に入れるかもしれないが、このことは、どんな大金よりも価値のあることだ、とライト師はいった。
 父はいつも息子たちに、富のむなしさを教え、いましめた。
 ウィルバーとオービルが、金銭上の諸問題を超然たる態度で聡明に処理し、もうけをめざす欲深い願望が自分たちの目標を曲げることを許さなかったのは、父のいましめのおかげであることほ間違いない。
 ライト牧師の倹約は、もうその必要がなくなった後もやまなかった。
 ウィルバーはあるときわざわざヨーロッパから父に手紙を送って、熱波がおそっている間は節約のため夜、扇風機をとめるのはやめて、夜中もずっと風にあたって涼んでくださいとたのんでいるほどである。
 ライト師は子供たちの成長と生活をずっと目を離さず見守り、幸いにも生きてウィルバーとオービルが名声を獲得するのを見ることができた。
 古代の長老のようにあごひげを長くのばしたこの老牧師は、深い愛情と理解をもって家族全員につきあい、あらゆる細々したものを保存した。
 この習慣のおかげで、ライト兄弟の業績に関する文書資料は、発明史の上で最も完備したものの一つとなっている。
 アメリカ議会図書館に寄託されているライト文書資料は、全部で三万点を下らない。
 その総合的な分析が公表されたのはやっと一九五三年のことであり、品目の一部は一九六〇年になってもまだ一般の閲覧に供することはできないだろう。
 ライト兄弟の物語の最も重要な諸側面は、ここ三十年の間にやっと少しずつ明らかになってきたのである。
 ライト兄弟は基本的なしつけを身につけた、自主的な考え方をもつ人に育てられた。
 二人は死ぬまでそういう人であり、成功によってちっともかわることがなかった。

 2 生い立ち 

 ライト兄弟の父はエセックスのケルブドン・ホールのライト家の出だった。
 母はドイツの専制政治を逃れてアメリカに移住したドイツ人の車大工の娘だった。
 母は手仕事がうまいので知られ、子供たちのために橇(そり)をつくるといった大工仕事まで手をつけた。
 ものを作ったり直したりするのはライト一家の習慣だった。
 父の収入がわずかだったから、ほしいもの、必要なものはたいてい家で作らなければならなかった。
 ウィルバーとオービルは、子供のときにもう、家の中のかなりな改造をやってのけた。
 家族全体がこういう活動に興味と誇りをもった。
 ライト夫人が健康を害したので、家族同士が助け合う必要が増大した。
 彼女は中年でからだがきかなくなり、子供たちはそれだけよけい家庭の雑用を手伝わなければならなくなった。
 ウィルバーは子供のとき、読書が特に好きで、またスポーツがとてもうまかった。
 フィギュア・スケートの名手だった。しかし十代のとき、アイスホッケーをしている間に、思いがけない大きな災難にあった。
 口をひどく打たれて、上の前歯が全部折れてしまった。
 このショックで彼は心臓を悪くし、回復するのに何年もかかった。
 歯がなくなったため表情がけわしくなり、他人が彼の性格を誤解する原因になった。
 この事故のため、彼の学校教育は中絶した。
 彼は家にとじこもって病人の母の看護にいそしみ屋外の仕事にはたずさわらなかった。
 ライト夫人は一八八九年に死んだが、父はウィルバーの看病がたぶん彼女の生命を二年間のばしたのだろうといった。
 家族のほかの人たちが外に出ている間家にいたので、ウィルバーは前にもまして本を読んだ。
 オービルはウィルバーより四つ年下だった。
 彼の名は、父が尊敬するユニタリアン教会の牧師の名をとったものである。
 オービルはいたずら好きで、よく学校をずる休みした。
 彼はウィルバーとはちょっと年が離れていたため、小さいうちはそう親しくはなかった。
 兄弟らしい深い理解は、少し後になってから生まれた。

 3 兄弟の結びつき、新聞をつくる 

 ライト兄弟の知的協力は、科学史上類のないものであるが、このユニークな結介が生まれたのは、二人の気質が似ていたからではなくて、むしろその逆だった。
 二人は互いに相補う存在だった。
 同じものに熱狂的興味をいだいたことを別にすれば、二人が共通にもつ特徴といったら、灰青色の目ぐらいなものだった。
 オービルは母に似て、着るものをひどく気にした。
 ウィルバーのほうは父に似て、身なりに無頓着だった。
 兄弟の間の異常な協力関係は、ある程度まで、彼らの父と母を結びつけていた深い愛情が、知的理解の分野で再現されたものといえよう。
 ライト文書資料の中で最も初期のものは、オービルが九歳のとき書いた手紙である。
 その中には、ブリキ缶に水を入れてストーブにのせてわかし、水と湯気をふき出させるという実験がのっている。
 ウィルバーは中学校に通ったが、別に卒業証書がほしいとは思わなかった。
 ラテン語、ギリシア語、三角法の手ほどきを受けたが、フランス語は学ばなかった。
 学校がおわると、アメリカ少年の慣例で、いろいろな片手間仕事をやり、わずかな手間賃をもらった。
 その一つに、刷り上がった教会の新聞を折りたたむ仕事があった。
 彼はこの仕事にうんざりしたので、かわりにやってくれる折りたたみ機械を発明した。
 ウィルパーは父の神学・哲学関係の蔵書をすみからすみまで読みあさった。
 一般的な本としては、彼もオービルも、グリムやアンデルセンの童話、プルターク英雄伝、アディソンの随筆、スコットの小説、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、グリーンのイギリス史、フィゾーのフランス史などが好きだった。
 科学関係の読みものは主としてエンサイクロヘディア・ブリタニカやチェンバーズ百科事典の諸項目だったが、特に一冊の本が彼らの将来に重要な影響をあたえた。
 それはマレーの『動物のメカニズム』だった。
 オービルは字が読めるようになるとすぐに科学の項目を読んだが、ウィルバーは一般的な問題のほうにもっと興味をもっていた。
 多くのアメリカ少年と同じに、兄弟も自分たちの新聞をはじめた。
 二人は小さな新聞を書いて印刷し、知りあいたちの間に回覧したり、売ったりした。
 先に手をつけたのはオービルだが、それは書くのがおもしろいからではなく、機械を組み立てて刷るのがおもしろかったからだ。
 オービルは生涯、文章をすらすら書くことができなかった――必要なときには、思うことをうまく表現することはできたが。
 彼はウィルバーを仲間にひきこみ、ウィルバーはユーモラスな記事を寄稿して、書くほうで手伝った。
 ウィルバーはごく幼ないうちからスラスラ文章を書いた。
 彼は大人になってから、偉大な文章家になった。彼の科学論文を読むと、立派な文体と知性の力がうかがわれる。
 オービルの学校友達に、有名な黒人詩人ポール・ローレンス・ダンバーがいた。
 ダンパーは一八九〇年に黒人の読者のため一新聞を創刊し、オービルはそれを印刷した。
 やがて、ライト牧師の上の二人の息子は家を出て、めいめいの家庭をスタートさせた。
 やもめの父と、下二人の息子と、一人の娘とはますますぴったり身をよせあうことになった。
 彼らは類のない仲よしの家族グループをつくった。
 ウィルバーもオービルも妹のキャサリンも一生結婚せず、故郷デイトンから住居を移すこともなかった。
 彼らの愛情は互いの間できっちり結ばれ合っていた。
 彼らは並はずれた団結力をもち、それは後におこった数々の大事件の間もけっしてゆるむことはなかった。
 晩年になってオービルは、ウィルバーと彼がおさめた成功を、特に有利な背景を何一つもたない二人の冒険好きのアメリカ少年が、一財産つくろうとしてはじめた努力の結果だと説明するよう、繰返しすすめられた。
 しかし彼は断固としてそれを認めなかった。
 彼はいう。
 ウィルバーと自分が航空の活動をはじめたとき、これで金をつくろうとは夢にも思っていなかった。
 彼らに何一つ有利な背景がなかったというのも事実でない。
 それどころか、自分たちは類いまれなほど幸福で知的な家庭生活という、ずばぬけて有利な面をもっていた。
 自分たちは立派なしつけで育てられ、知的な建設的な興味を追求し好奇心を満足させるように、いっもはげまされてきた。
 この相互理解にはげまされて自分たちは心からの確信をもってアイディアを追求することかできたのであり、これ以上大きな利点は、たとえ望んだとて得られるものではなかったろう。
 ――オービルはそう評価している。

 4 自転車の店を開く 

 


ライト兄弟の自転車店(右)と住居(左)
デイトンからミシガン州ディアボーンのグリーンフィールド村に移され、再現された

 ライト家の二少年の興味は、一八九二年にジャーナリズムから自転車へ移った。
 そのころ、前後輪の大きさが同じの「安全」型自転車がアメリカへ導入されたのだった。
 兄弟は有名メーカーの自転車を売る店を開くことにした。
 商売は繁昌し、二人はすぐに小売のほか修理もやるようになり、さらには自家製の自転車を作って売るようになった。
 彼らは冬の間に自転車をつくった。アメリカ中西部の冬はきびしいので、商売が暇になるからだ。
 自転車工場の簡単な道具を使って、思いつくまま奇妙なものもつくった。
 一八九五年にオービルは一種の計算器と、簡単なタイプライターを考案した。
 彼らの自転車は特にその地の学校の少年少女にうけたので、ウィルバーは学校の答案用紙そっくりの広告をつくった。
 それには一連の質問が並んでおり、正解はすべてライトの自転車となるようにしてあった。
 兄弟は本当に仲よく力を合わせて働いた。
 二人は共同の銀行口座をもった。
 家では、長期間二人だけで暮らすことが多かったので、一週間交替で炊事をうけもった。
 二人は若いうちから、完全に自分たちだけで生活することができた。
 何でも自分でやるという彼らの特徴は、仕事が重要なものになればなるほどますますはっきり目立った。
 兄弟はすでに自分たちの力で食べていけるようになりはしたが、ウィルバーは自分が商売にはあまり向いていないと感じた。
 そこで一八九四年に父に手紙を書いて、もっと高い教育を受けたいので、費用の一部として三十ポンド貸してくださいとたのんだ。
 彼は、知的な努力こそ自分の喜びであり、商売よりも知識的職業のほうが自分に適しているといった。
 父は金を貸すことに同意した。
 けれども、家族全体の情況はひっ迫していて、とてもウィルバーが安心して大学へいける状態ではなかったので、彼はこの希望をあきらめた。
 しかし彼は科学研究に全力をささげられるような条件を獲得したいという望みを生涯失うことがなかった。
 オービルもやはり同じことを強く望んだ。
 ウィルバーが一九一二年に死んだあと、オービルは自分がもっていた産業上の利権をよい値がつくかぎりできるだけ早く売って、一九一五年に隠退した。
 そのあと三十三年にわたって、彼は個人の実験室で、気に入りのテーマを選んで研究した。
 しかしひどく重要な発見は一つもしなかった。
 彼の天才をみのり豊かなものにした兄との協力はすでに終わっており、彼生来の創造力は孤独のなかで、萎(な)え、しぼんでしまったのだった。

 5 飛行機への興味 

 兄弟が飛行機の問題にはじめて興味をいだいたのは、一八七八年で、二人とも小さい子供のころだった。
 ある日父が小さな模型の飛ぶコウモリを買ってきた。
 これは不運の天才ペノーが発明したおもちやの飛行機械の一つだった。
 ペノーはゴムバンドを使ってプロペラをまわすことを考えだし、安定して飛ぶ模型飛行機械をはじめて作った人である。
 しかし世に認められなかったため、三十歳で自殺してしまった。
 ライト兄弟は彼の巧みな発明品を生涯忘れなかった。
 大人になって改めて飛行に興味をよびさましたのは、一八九五年に、ベルリンのオットー・リリエンタール(一八四八~九六)に関する記事をふと読んだのがきっかけだった。
 リリエンタールのグライダーを使った空中滑走は、今までに例のない手に汗にぎる新しいスポーツだと二人は感した。
 彼らが真剣に飛行の研究をはじめたのは、全くこのスポーツとしての関心からだった。
 あくる年、リリエンタールがグライダー事故で墜落死したというニュースが、彼らの好奇心を大いに高めた。
 兄弟は、事故の原因は何だったのか、どうすればそれを避けることができただろうか、知りたく思った。
 二人はデイトンの公立図書館で飛行関係の文献をさがしたが、役に立つものはほとんどなかった。
 S・P・ラングリー教授(一八三四~一九〇六)が航空の研究をしているときいていたので、ウィルバーは一八九九年にラングリーが会長をしているスミソニアン協会(イギリスの化学者J・スミスソンの寄付をもとに一八四六年に創立されたアメリカ国立学術機関。学術研究と科学知識の普及を目的とし、博物館、美術館、図書館等多数の施設をもつ)に手紙を出し、航空関係の文献を教えてほしいと申し送った。
 この最初の手紙にすでに天才の片鱗があらわれていた。
 ウィルバーはいう。――
 自分はG・ケーレー(一七七三~一八五七。飛行をはじめて科学的に研究したイギリス人)やペノーの設計をまねて飛行模型を作ったときからずっと飛行に興味をもっていた。
 自分自身の観察から、人間飛行が可能であり実用的なことをますますかたく信じるようになった。
 それはほかのアクロバット的なわざと同じことで、知識と熟練の問題にすぎない(ウィルバー自身かなり体操にすぐれていた)。
 鳥は最も完全に訓練された体操選手であって、特別な早わざを発揮する揚合は、ふだん飛んでいるときの四倍もの努力を要することがある。
 つまり鳥はふだん体力を十分出しきっておらず、大変大きな力の余裕があるわけで、これからみれば、たとえば人間が飛行体操で鳥にはけっして及ばないとしても、単純な飛行のために必要な力は鳥のもつ力よりはるかに低く、したがって人間の僅少な体力で達成できる範囲にあるだろうと自分は信じる。
 問題の解決は、多くの独立した研究者たちが蓄積した知識と熟練からひき出すことができるだろうと確信する。
 自分は熱心家であるが、自分だけの気に入りの理論にしがみついて他の意見に耳をかさない奇人ではない。
 将来人間飛行が達成されるために自分なりのささやかな貢献をつけ加えることができるよう、今までにわかっていることをのこらず学び知りたい、それが自分の願いである。
 スミソニアン協会は、オクターブ・シャニュート(一八三二~一九一〇)の『飛行機械の進歩』やラングリーの空気力学に関する著書などを含む推選図書のリストと、多数のパンフレット――特にリリエンタールの『飛行の問題と滑空の実験』を送ってよこした。
 この資料がついたころ、ちょうど妹のキャサリンが大学の休暇で家に帰ってきた。
 彼女はウィルバーとオービルがきっと歓迎するものと期待して女友達を一人つれてきたのだが、二人の青年は飛行文献にすっかり夢中になり、彼女の存在にほとんど気づかなかった。

  6 文献の研究 

 何年も後になってウィルバーは、これらの著作を読んだ結果、空を飛ぼうという実りない試みのために、どれほどおびただしい努力と金が無駄についやされたかを知って、二人とも深刻なショックを受けたと語っている。
 兄弟はそれまで、問題がまだ解決されずにいるのは、一流の能力のある人がだれも取組んだことがなかったせいだと考えていた。
 ところが大ちがい、実は史上最大の万能の天才レオナルド・ダ・ビンチをはじめとして、ケーレー、ラングリー、ベル、マキシム、ジャーニード、パーソンズ、エジソン、リリエンタール、その他多数の有名な科学者、技術者を含む科学界、発明界の一流の天才たちがこれを試みてきたのだった。そんな偉人たちも、だれ一人としてこの難問に歯が立だなかったのだ。
 兄弟は彼らの失敗の研究をはじめた。これは大変に参考になった。
 すべての先行者の仕事の中で、二人はリリエンタールの業績を一番高く評価した。
 それは、リリエンタールが実際に空中で滑走を二千回以上も行ない、また翼に作用する空気の圧力を広い範囲にわたって科学的に測定したからだ。
 けれども二人の計算によれば、そのリリエンタールでさえ、まる五年にわたる実験期間中、空中に止まったのは総計五時間をこえなかった。
 飛行の問題を解決するためには、実験者がなんとかもっと長く空中にとどまれるような方法を発見しなければならないことは明らかである。
 実験者がかなり長時間空中に浮かんでいられるようになってはじめて、これまでグライダーをたった数秒間で地面におとしてしまった様々な飛行上の困難を、どうすれば克服できるか、おちついてしらべ、つきとめることができる。
 ウィルバーが後になっていっているように、飛行の基本問題は、機械の釣合を保ってかなりの時間滞空できるようにすることであって、軽くて丈夫な骨組みを組み立てたり、軽くて強力なエンジンをつくったりすることではないことが、はっきりしてきた。

 7 補助翼のアイディア 

 ライト兄弟より前の研究者で、飛行機械の釣合を保つための完全な機械システムを考案した人は一人もいなかった。
 リリエンタールは、自分の体重を前後に移動させてグライダーの姿勢を立て直す助けにした。
 横ゆれ(ローリング)を打ち消すシステムはだれ一人開発していなかった。
 この問題を熟考しているうちにオービルは、もしも翼の両端の縁を曲げて、空気に対して翼の主要部分と異なる傾きをもたせることができたら、解決できるかもしれないと見てとった。
 この考えは、翼のうしろについた、上げ下げできる垂れ(フラップ)、つまり補助翼のアイディアを含んでいる。
 補助翼はそれ以来すべての飛行機に使われている。
 これはライトの最初の特許の基本部分となったものであり、後に特許争いの対象となったが、あらゆる判決ではっきり確認された。
 ライトのシステムでは、飛行機械の重心の位置は不動であり、釣合は、翼の各部分に作用する空気の圧力を変化させることによって保たれる。
 約六週間たって、ウィルバーはオービルのアイディアを具体化する方法を思いついた。
 彼は自転車店の中で、長いしなやかな四角のボール箱を扱っていたとき、小さいほうの端は変形させないままで、箱を長軸のまわりにねじって、広い面を右端と左端で反対方向に傾けることができるのに気がついた。
 彼は同じ方法で、複葉の箱形グライダーの翼面を、構造上の強度を減ずることなしにそらすことができるのではないかと示唆した。
 文献のコレクションを受けとってから三ヵ月とたたないうちに、二人は自分たちのアイディアをためすため、箱型の凧を作りはじめた。
 それは、長さ約五フィートの二枚の翼を上下に並べたもので、空中にとんでいる間に、地上からひもを操作して翼をそり返らせることができた。
 二人は、翼をそらすという発明のおかげで、凧の釣合はずっとうまく調節できることを発見した。

 8 シャニュートの指導を受ける 

 一八九九年の末に、ライト兄弟はワシントンの気象庁へ手紙を出し、アメリカ全国各地の風速に関する情報を送ってもらった。
 ついで一九〇〇年の春、ウィルバーはシカゴにいるシャニュートに手紙を書き、人間の乗った凧を飛ばす計画をすすめていることを知らせた。
 これまでグライダー実験をした人々はわずか数秒しか空中にとどまれなかったのにひきかえて、このタコではずっと長い間空に浮かんでいられるだろうから、乗った人は何時間もそれをあやつって、十分な体験をつむことができるだろうとウィルバーは考えたのだった。
 彼はシャニュートに、そんな凧をあげる場所はどこが一番よいか、教えてくれとたのみ、シャニュートはそれに答えて、大西洋岸のはずれにある砂丘を推薦した。
 シャニュートはさっそくライト兄弟に力強い激励をあたえた。彼はフランスから移住した身分の高い土木技師で、シカゴの家畜置揚など、大きな建造物を多数建築した。
 彼の航空の歴史に関する論説は、当時までの飛行に関する情報を最もよく集めたものだった。
 裕福で、自分でもグライダー実験を行なった。
 そればかりでなく、飛行の問題を解決するには、方面のちがう能力をいくつか組み合わせなければならないことを正しく理解していた。
 一八九〇年に彼は、一人で新しい機体と新しいエンジンを同時に発明することはできそうもないから、研究者の連合が必要だとのべた。
 装置を設計する機械技術者、それにかかる応力を計算する数学者、部品を作る実用工学者、資金を提供する資本家のシンジケートといったものを、一人で全部兼ねることは不可能である。
 進歩がこれほどのろかったのは、問題のすべての面を解決するのに多種多様の才能が必要だったからだ。――
 そう彼は考えた。
 ライト兄弟が、飛行の問題を解決するにはどんな能力が必要かをこうも正しく認識していた名高い技術者と親しく接触したおかげて、大きな利益をえたことは疑いない。
 二人は機械の釣合こそ飛行の最も大事な問題だと見とっていたから、研究の進路を定める上でもこれをまっさきに考えなければならないことを理解できた。
 彼らは、グライダーの練習とか、数学の計算とか、エンジンの出力、骨組の構造などといった問題のどれか一つで解決できると信じるようになったことは一度もなく、常にこれらすべての問題の複雑巧妙なバランスによってはじめて解決が可能なことを理解していた。
 結果からみれば、ライト兄弟は二人の中に多くの必要な才能をすべて備えていたわけであり、それらを結合することにより必要な結果に到達することができたのである、

 9 最初のグライダー実験 

 一九〇〇年の春の自転車大売出しがすみ、ひまになると、兄弟は飛行機械の安定性を増す方法について、いろいろ考えをめぐらした。
 長い時間をかけて、想像上で設計を様々に変更し、それぞれの可能性を計算した。
 二人は翼の前方に昇降舵をおくと、安定性が増すだろうという結論に達した。
 八月に二人は、自分たちの考察と計算の結果を土台にして、人の乗るグライダーの建造をはじめた。
 材料の費用は全部で三ポンドほどだった。
 二人ははじめそれを凧として飛ばし、操作を十分マスターしたあとで、グライダーとして飛ばすつもりだった。
 そのためには、片田舎の、木や邪魔物がなく、いつも一定した風のふく広い土地が必要だった。
 風に向かって飛べば、グライダーの地面に対する速度は小さくなるから、パイロットにとって危険はずっと小さくなるはずである。
 二人は気象庁から送られたリストを検討した。そのなかにキティホークがふくまれていた。
 キティホークは北カロライナ州の海岸の沖に横たわる大きな砂州の上にあり、ほとんど人のいないへんぴな海岸で、三世紀前にウォルター・ローリーにひきいられアメリカにわたった不運な植民者たちが死にたえた場所だった。
 それがライト兄弟の心をひいたのは、デイトンから一千マイルしか離れていず、ほかの見込ありそうな場所に比べてずっと近かったからだ。
 彼らはキティホークに直接手紙を出して、詳しい情報を送ってもらった。
 それによれば、そこは広大な砂地で、ところどころに高さ百フィートぐらいの丘があり、木はなかった。
 近くに一隻の救命艇と沿岸監視所があり、数人の住民のほか、漁師や海岸ごろつきが時たま姿をみせた。
 ウィルバーの手紙を受取ったのは、この地で一番教育のある人、つまり婦人郵便局長の夫だった。
 この人はキティホークについて、大変写実的な、役に立つ説明を書きよこし、兄弟はそれを読んで、こここそ実験にうってつけの場所だと確信した。
 ウィルバーはキティホークめざして九月に出発した。
 そこに到達するには、一番近い海岸の町からボートで四十マイルの旅をしなければならなかった。
 いくらさがしても、水のもれる古いボートしか手にいれることができず、四十マイルを渡るのに二日かかった。
 船はあまりにきたなくて、彼は乗っている間はほとんど食べものがのどを通らなかった。
 ついに目標のへんぴな海岸につくと、ウィルバーは大変あたたかく迎えられた。
 婦人郵便局長は彼を自宅に泊めた。
 住民たちははじめ、ウィルバーを、スポーツに何週問もあてられる余裕のある人とみて、目をみはった。
 てっきり金持にちがいないと考えた。
 しかしそのあと、彼の手仕事のうまさにびっくりした。ウィルバーはグライダーの骨組を組み立て、繻子(しゅす=厚地の絹織物)のきれを切り、ぬい合わせて、翼に張る布をつくった。
 裁縫には婦人郵便局長のミシンを使わせてもらった。
 彼は砂の上にテントを張ってグライダーや道具をおさめ、オービルがやってくるのを待った。
 その月の末にオービルが到着したが、婦人郵便局長の家には二人も泊まれる部屋がなかったので、兄弟は外のテントにキャンプした。
 オービルは炊事を受けもち、ウィルバーは洗濯を受けもった。
 パンがわりに一種のビスケットを焼いた。牛乳は手にはいらなかった。
 グライダーが組み立てられると、重さは五十二ポンドで、翼幅(翼の両端の距離)は約十七フィート(5.1m)もあった。
 前面に昇降舵がつき、翼はそらすことができた。
 二人はすぐにそれの揚力が、設計の計算に使ったリリエンタールの飛行翼に作用する空気圧の表の数字から算出される大きさより、ずっと小さいことを発見した。
 そこでまず、五十ポンド(22.5kg)という小さな目方をつんで凧(たこ)としてあげて様子をみたうえで、そのあと人をつんで凧として飛ばすことにした。
 満足するまで凧として試したあと、二人は砂丘の斜面から、風が吹きあげてくるときに、スゥーと飛び下りてみることにした。
 機械は時速約三十マイルで降り、風は時速約十五マイルで吹きあげていたから、機械の地面に対する速度は時速十五マイルにすぎなかった。
 機はたいてい地面から二、三フィート上を滑走するだけだった。
 ライト兄弟はいつも神経質なくらい安全に気をくばった。
 最初のキティホーク訪問を切りあげねばならなくなったとき、数えてみると、機械にのって凧として空中に止まったのが全部でたった十分間、グライダーとして空中を飛んだのはたった二分間にすぎなかった――
 予想では何時間も滞空できるつもりだったのだが。
 しかし二人は、この機械が以前に作られたどれよりも安定で、体重を移動させないでも機械じかけだけでコントロールできることを見いだした。
 二人はもっと大きなグライダーをつくることにきめ、この古い機械はデイトンへはもって帰らないことにした。
 婦人郵便局長は翼の繻子(しゅす)布を切りとり、それで二人の幼い娘のためドレスを作った。

 10 二回目のグライダー実験 

 一九〇〇年末から一九〇一年初めにかけての冬の間に、ライト兄弟は新しい機械を設計し、その翼の丸みをもっと大きくした。
 シャニュートはデイトンまでやってきて、兄弟に会った。
 彼は二人をさらに激励し、また金銭上の援助をしようと申し出た。
 しかしライト兄弟は、だれからも金銭的な援助を絶対受入れなかった。
 彼らは自転車商売から年に約六〇〇ポンドの利益をあげており、これで全生活をまかなったうえ、研究に必要なつつましやかな余剰をひきだすことができたのだ。
 他人から援助を受けなかったととは、実に賢明だった。
 というのは、後になってシャニュートは、兄弟が自分の激励を十分高く評価していないと、文句をいっている。
 もしもシャニュートがライトの仕事に金銭的に介入したならば、兄弟は自分たちの発明を独占支配できなくなって、以後の航空の発展は彼らの天才からあれほどの指導を受けられなかったかもしれない。
 ライト兄弟は一九〇一年の秋にキティホークにつき、新しいグライダーを使って実験をはじめたが、この大きいグライダーは昨年のものほど性能がよくないことがわかった。
 二人はそれが、翼のそりをひどくしすぎたせいだということを発見した。
 そりをへらし、平らにしたところ、グライダーはずっとうまくはたらくようになった。
 この機械で滑空している間に、兄弟は、翼を上に傾けて下面に風があたるようにしても、必ず機体が上昇するとはかぎらないことに気がついた。
 その原因は、翼面の傾きを大きくすると、空気のぶつかる面がそれだけふえ、抵抗で空気中をつっきる翼の速度が小さくなって、翼を押し上げる揚力が減るせいだとわかった。
 してみると、翼を上向きにしたとき、機体は上昇せずに逆に降下する場合がありうる。
 二人はこの効果を打ち消すために、グライダーのうしろに垂直なひれ、つまり安定板をつけることにした。
 一連の滑空実験の間に彼らは、グライダーに作用する風圧の中心は、以前の研究者たちが信じていたとおりには行動しないことを発見した。
 多くの実験を基礎として、それまで広く信じられていたところによると、翼の水平に対する傾きを増加させれば、翼に作用する空気の中心は必ず翼の前縁のほうへ移動する。
 このことはグライダーの釣合を保つうえで根本的に重要だった。
 なぜなら、あたりまえの話だが、パイロットの主な仕事の一つは、風圧がグライダーをひっくり返さないよう、うまくそれを打ち消すようにグライダーをあやつることなのだから。
 兄弟は、翼の傾きがもともと小さいときに、傾きをさらに増すと、圧力中心は、従来の常識とは逆に、翼の後縁のほうへ移動することがあるのを発見した。
 これはきわめて重要な発見だった。
 というのは、それをもとにして兄弟は安定で安全なグライダーを設計できることになったからだ。
 ほかの実験家たちは、それを知らないため、時にはグライダーがどうしても下降せざるをえないように操作することがあった。
 彼らはそれと知らずに、自分で機械をひっくり返し、自ら墜落したのだった。
 ライト兄弟は、滑空している間にグライダーから面を一つ前に張り出して実験するという方法で、この発見が間違いないことを確かめた。
 キティホークの砂の荒野でこれらの滑空実験をすすめていた間、快適な暮らしとか慰安とかいったものは一切、消し飛んだ。
 新鮮な牛乳が全く手にはいらないので、のどから手が出るほどのみたかった。
 夜の蚊はものすごく、眠れないことも多かった。
 兄弟はこの難儀だけでも、もう飛行への努力は今シーズンだけであきらめたい気になった。
 しかしこの夏の実験は、パイロットが体重を利用しないでも機械じかけだけで空中で釣合をとれるような、大形グライダーをつくることが可能だと兄弟に確信させた。
 これは根本的に重要なことだった。というのは、以前のグライダーがみな小さかったのは、パイロットが体電を移動してつくる復元力が弱すぎて、とうてい大きなグライダーを調節できないせいだったのだか、この制限のためグライダーは小さいのしかつくれなかった。
 それから見れば、エンジンを動かして飛ぶ飛行機の可能性は全く微々たるものだった。
 エンジンを空中に浮かしておくには、古い小さなグライダーより、一まわり大きいのが絶対必要だったのだ。

 11 先人の誤り 


 大きいグライダーをコントロールする方法を発見したので、ライト兄弟は今やエンジンをつめるほど大きなグライダーも十分操縦できることを知った。
 これは大変な前進だった。しかしそうはいっても、この夏の実験の結果は何よりもまず兄弟をがっかりさせ、すっかり意気消沈させた。
 二人は、先行者全部が圧力中心に関し正しい知識をもっていなかったことを発見したため、深刻なショックを受けた。
 これらの人々がみな間違っていたということであれば、これまで蓄積された航空関係の科学知識全体があやしいということになる。
 二人は、まだほかにもたくさんのおとし穴が存在するのではないか、それらが発見される前に実験者はぞくぞくと殺されて、飛行はどこまでいっても安全になることはないのではないか、と恐怖を感じた。
 このすばらしい夏の研究をおえて、デイトンへ帰郷する途中、ウィルバーはこう評した。――
 今後一千年以上たたないと人類は飛べるようにならないだろうと信じる、と。
 この段階でまたもやシャニュートが兄弟に、がっかりするなとはげまし、自信をよみがえらせた。
 シャニュートはウィルバーをシカゴの「西部技術者協会」へ招き、兄弟の実験結果について講演させた。
 ウィルバーにとって生まれてはじめての講演だった。
 彼は、翼に作用する空気圧に関する現存のデータの中に、おどろくべき間違いがあることをはっきりさせた。
 ウィルバーがシカゴにいっている間に、オービルは、そんな大胆な批判をしても大丈夫かと心配になり、結局のところ間違っていたのは自分たちのほうだった、ということになるのではないかと疑いばじめた。
 世界じゅうの指導的な人々がみな古い数字を容認していたではないか?
 ウィルバーと自分はきっと、思いあがった大馬鹿者として、天下の笑いものになるのではないか?
 オービルは大いそぎで、長さたった一フィート半ほどのちっぽけな風洞を組み立て、模型の翼を使って実験を行なった。
 たった二日の実験だけで、これまで認められていた数字のいくつかが間違っていることを示す決定的な証拠がえられた。
 ウィルバーがシカゴから帰ると、兄弟は相談の結果、その一日の実験で自分たちの批判が正しいという自信はいっそう高まったけれども、ウィルバーの講演を印刷した論文では、批判の調子をいくぶん和らげておくほうが賢明だろうという結論に達した。
 しかし調子を和らげたとはいえ、一九〇一年十二月に出版されたこの論文は、航空学に関するあらゆる科学論文の中で、たぶん一番よく引用されるものとなった。
 それはライト兄弟かエンジン駆動の飛行機ではじめて飛行に成功する二年も前に刊行されたのである。

 12 風洞実験でデータを蓄積 

 この時点では、ライト兄弟はさらにグライダーの飛行実験を続けるかどうか、はっきりきめていなかった。
 彼らは実際の飛行よりも、航空科学の中に発見した誤りのほうがおもしろくなり、自分たちがあらわにした科学上の問題の研究に専念しようと考えた。
 二人は長さ約六フィート(1.8m)、断面十六インチ(48cm)平方の風洞をつくり、自転車の工場の中にすえつけた。
 砥石(といし)車をまわすのに使っていた一馬力のガスエンジンで送風扇をまわし、風洞内に風を吹きこんだ。
 風はふるいを通して送り、それによって風洞内の通風を安定にし、乱流がおこるのを防いだ。
 約二ヵ月にわたって、二人は二百種以上の模型翼面を使ってその特性をテストした。
 翼面は鋼鉄板を金床にのせ、ハンマーでたたいて必要な形にした。
 翼に風の流れをあて、翼の傾きを少しずつかえては、作用する風圧を測り、広い角度範囲に対しえた結果をグラフの上に系統的にプロットして、きれいなグラフをつくった。
 単葉機に使われているような単一の翼のほか、複葉機にみられる上下二枚に並んだ翼面、三葉機にみられる三枚の翼面についても、空気流に対するふるまいを研究した。
 こうしてすばらしい、思いがけない結果が大量に得られたが、そのなかで彼らは、単純な四角の平面を流れに対し三十度傾けた揚合、傾きを四十五度にふやしてもっと広い面積を流れにあてたときより大きい圧力を生じることを発見した。
 また翼の前縁はスッパリ切るよりは丸みをもっているほうがよい、つまり今日いう流線型のほうがすぐれていることもつきとめた。
 風洞をすえつけてある工場の中でものを移動させると、風洞内の気流が乱されることに気づいた。
 そこで十分に注意して工場内のあらゆる物品を正しい位置から動かさないようにし、自分たちのからだも、測定中はいつも風洞のそばにぴったり同じ位置に立つよう気をくばった。
 模型翼面に作用する力を測定するための器具は、自転車のスポークの針金や、弦鋸(つるのこ)の刃のかけらを使って組み立てた。
 彼らが採用した実験手順のおかげで、模型からえた測定データから、実物大の翼の設計について正確な推論をすすめることができた。
 二人は自分たちの測定結果のすばらしさにすっかり魅せられ、夜明けまで実験を続けることもチョイチョイあった。
 ライト兄弟の風洞実験は、実験科学の歴史上最も輝かしいものの一つである。
 この実験で彼らは飛行機の翼の特性を支配する基本要素をほとんど全部測定した。
 この分野のその後の研究は、主として、彼らの方法と結果の拡張にすぎなかった。
 こういったこと一切が、自転車商売のひまな時期の数週間の間に行なわれた。
 彼らの実験手順の正しさが数学によって完全に証明されたのは、三十年以上も後になってからだった。

 13 秘密主義と誤解 

 ライト兄弟は親しい友人一、二名にしかこの実験のことを詳しくもらさなかった。
 彼らの結果がどんなに広範囲でどんなに奥深いものだったかは、一九三九年のウィルバー・ライト記念講演でW・G・ルイスが詳しく説明するまでは、一般にはわからずじまいだった。
 ライト兄弟が自分たちの基本的結果を秘密にしておいたのは、特許制度だけでは権利が十分保護されないと感じたからだった。
 このガッチリしまいこんだ基本的科学知識のおかげで、二人は、先行者たちの業績に比べて不可解なほど格段にすぐれた実際的成果をあげることができた。
 後にウィルバー・ライトがフランスで最初の展示飛行をしていたころ、偉大な技術者H・V・ラッチェスターが彼に会い、彼の飛行機械の原理についていくつか科学的な質問をした。
 しかしウィルバーはことばをにごして答えなかった。
 それでランチェスターは、ウィルバーは経験だけによって仕事をする人で、彼とオービルが動力駆動飛行機にはじめて成功したのは、幸運な偶然のチャンスのおかげだと結論した。
 これが確立された信仰になってしまい、また兄弟が自分たちの基礎研究を発表することをしぶったせいで、彼らの成功の本質に関する誤解を広範にまきちらす結果になった。
 二人は科学にも技術にもまるで教養のない、ただの自転車工で、幸運によってこの大問題の解答にふと行きあたったにすぎないのだと信じられた。
 発明史の上でこれより大きな誤解はかってない。
 ライト兄弟は、科学や技術の訓練はまるきり受けなかったものの、問題に取組むのに採った方法は根本から科学的なものであった。
 もちろん彼らは、最高級の科学的・技術的才能を生まれつきそなえていた。
 しかしそれだけでは十分ではなかった。
 風洞実験を行なった動機の一つは節約だった。
 二人は、実際に空へ上がる前に、できるだけ多くの問題点をあらかじめ書斎や工場で解決しておきたいと考えた。
 彼らはつつましい自転車屋で、遊びごとに割ける金は数ドルしかない。
 すぐこわれてしまう高価な機械をつくる余裕はなかった。
 動機のもう一つは安全だった。ウィルバーは繰返して父に、自分たちはありとあらゆる用心をしていると保証した。
 二人は飛行機械に使う木や金属や、いろいろな材料の強度を徹底的にテストした。
 グライダーを組みたててからは、翼の端だけ支えて浮かせ、それに、飛行中にかかると思われる力よりずっと強い力を加えてみた。
 こういった天才はいったい何から生まれたのだろう?
 ウィルバー自身が後になってこの問題を論じた。
 彼はシャニュートにあてた手紙の中でこういっている。――
 大発明は、知能というただ一つのものから生まれるのでなく、ほかに大変多くのものに依存している。
 ジェームズ・ワットがニューコメンのエンジンを改良し完全な蒸気機関に仕上げるまで、なぜ五十年もの歳月がたたなければならなかったのだろうか?
 ウィルバーの意見によれば、それが、有能な人々がいなかったせいではないことは、間違いない。
 その五十年という期間に、ワットと同じぐらいすぐれた才能をもった人がたくさんいた。
 しかし、様々な情況が正しく結合したなかに、うまくはまりこんだ人は一人もいなかった。
 オービルと自分がやった仕事について、自分に特に目立ってみえる点はただ一つ、飛行の問題を解決するのに要した期問が短かかったことである。
 たった四年間の、それもひまをぬすんでの仕事だったのだ。
 もしも自分たちがもう少し早くか、もう少し遅く仕事をはじめていたら、たぶん成功しなかったにちがいない。
 それはいろいろな情況が、特異なほどうまく結合したおかげだった。
 つまり、年齢、つつましい富、職業の機械的な性格、役に立つ工場設備、商売が季節的なのでひまな時期にはかなり長時間店をあけて海岸に行けたこと、貴重な社会的習慣と態度を育成し知的興味を促進するような家庭に育ったこと、偉大なしかし相異なる才能をもつ二人の兄弟が、類(たぐい)まれなほど密接に協力し知的討論をかわしたこと、こういった様々の条件が組み合わさったことから、あの成功が生まれたのだ。
 こういった情況の組み合わせがあたえられるなら、事が成功することはほとんど確定的である。
 実際、ウィルバーがシャニュートヘの手紙でのべたとおり、それは相対的能力の問題ではなく、ある特別な情況の連鎖から生じる結果を数学的に計算できる、確率の問題であった。
 ウィルバしか自分たちの成功を、個人の知能あるいはあいまいな天才というもののせいだとすることに強く反対したことは、発明がどういうことから生まれるかについて彼がのべた評言を、それだけよけい権威あるものにしている。
 なぜなら一般に人は、自分の知能の力の貢献を低くみつもろうとはしないものだからである。

 14 三回目のグライダー実験 

滑空の体験と風洞による実験を基礎にして、兄弟は新しいグライダーを作った。

 それは従来の一番よいグライダーに比べて、空気力学的に二倍の効率をもっものだった。

 二人はそれをキティホークヘもっていき、秋の間にこれで一千回以上の滑空を行なった。時には時速三十六マイル(58km/h)という強風の中で飛ばすこともあった。

 新しいグライダーは固定した尾翼をもっていた。

 彼らは五十回の滑走につき一回ぐらいの割合で、機がきりもみ状態になるのを知った。

 オービルは、ベッドの中で眠れぬ何時間かの間、いったい何がおこっているのかと頭をふりしぼった。

 彼は幾何学的な空想力が強く、心の中で翼面の運動とそれに加わる風圧の作用をまのあたりに描くことができた。

 彼は尾翼を固定面から可動面へかえれば、きりもみ運動を止めることができるはずだと結論した。

 この一九〇二年のグライダーとその操縦システムは、ライト兄弟の航空特許の基礎となった。

 この基本特許は、それを認めたすべての国で航空発展の支配権をライト兄弟の手にゆだねることになったものだが、一九〇三年はじめ、つまり二人がエンジンで動く飛行機を作る以前に出願された。

 材料の面だけからみれば、このグライダーは過去一千年間のいつでもつくることができた。

 木と布と綱がありさえすればよかった。

 しかし、それを生みだすのに使われた実験的方法は、何世紀にもわたる科学と技術の成果だった。

 こうして大きなグライダーで成功し、また空気力学上の既存の科学データが不完全なことを発見したときのひどいショックからも回復したので、兄弟はいよいよ、動力で飛ぶ飛行機の設計にとりかかった。

 


1902年のグライダーを凧としてテストしているところ
キティホーク、1902年9月19日

 二人は大きな自信をもって仕事のこの段階に足をふみ入れた。
 エンジンが飛行機の一番重要な部分ではないことは、すでにはっきりしていた。
 エンジンがしなければならないのは、大きいグライダーを空中に保つことだけである。
 いまのグライダーはエンジンなしでもほとんど空中に浮かんでいられるのだ。
 鳥だってエンジンなしで、つまり翼をひろげたきりで空を舞っていられる。
 してみれば、空気力学的に効率のよいグライダーが、エンジンなしで、または少なくとも小さなエンジンだけで、空を舞えないはずがあろうか?

 15 エンジンとプロペラを自作 

 一九〇二年の末、ライト兄弟は、八馬力出せて目方が二百ポンド(90kg)をこえないガソリンエンジンを買おうとさがした。
 これはひかえめな要求だったが、それを供給できる会社は一つもなかった。
 そこで二人は自分でつくることにした。
 彼らは四つのシリンダーを水平に並べた四気筒エンジンをつくった。
 目方は一七〇ポンド(76.5kg)で、十二馬力らくに出せた。
 こうして、たいした費用をかけずに、計算上必要と思われた性能よりはるかに高いものを手に入れたのだった。
 一方、自分たちのデータから計算して、飛行機がそれぞれ同じくらいの目方をもったパイロットとエンジンの両方をのせて飛ぶということなら、翼幅は少なくとも四十フィートなければならないと結論した。
 最後に残ったのは、プロペラの設計の問題だった。
 二人は、船を動かすためのスクリュー・プロペラを手本にすれば簡単に作れるだろうと考えた。
 そこでデイトンの公立図書館で、船用プロペラに関する本を借り入れたが、読んでみて、船用プロペラの理論がほとんどわかっていないのを知ってびっくりした。
 船のプロペラの形は理論から計算するのでなく、長い経験だけにたよっていた。
 空気中ではたらくプロペラの性能については、記録されたデータは事実上一つもなかったから、二人は他人の過去の経験だけをよりどころにして設計を含めることはできなかった。
 兄弟はこの思いがけない困難に前途をはばまれたのを感じた。
 二人は何週間もかけて、プロペラの本質について考え、議論し、基本原理からその特性を算出しようと努めた。
 ここでまたも彼らの天才が発揮され、全く新しい、深遠な、科学的に正しい方法で問題に取組むことになった。
 彼らはプロペラの力が、実は飛行機の翼を軸のまわりに旋回させたものにすぎないと見てとった。
 してみれば、その推力は原理的には翼の揚力と同じであり、刃の形や傾きをいろいろに変えたときの推力は、滑空や翼の風洞実験から蓄積した空気力学のデータから、計算して求められるはずである。
 この問題について解析的な討論が長くつづいたが、その間オービルは、居間のストーブの片側にある椅子に腕組みをしてすわり、ウィルバーのほうは反対側にある椅子に、長々と足をのばしてもたれ、組んだ手に頭をのせているのが常だった。
 兄弟はプロペラの推力を約一パーセント以内まで精密に計算することに成功し、以前にマキシムやラングリーがつくったプロペラよりも、約三十パーセントも効率の高いプロペラを設計した。

 16 キティホークでの準備とラングリーの失敗 

 一九〇三年九月には飛行機ができあがったので、兄弟は実地にためすためキティホークめざして出発した。
 二人とも自信にみち、体力、精神力とも最高の状態にあった。
 ウィルバーは三十六歳、オービルは三十二歳たった。
 二人とも筋肉が筋ばって強く、体重は約九ストーン(一二六ポンド=56.7kg)しかなくて、実験飛行家にぴったりの体格だった。
 新しい機械を組み立てている間も、古い機械を使って飛行練習にはげんだ。
 けれども天候はひどく悪くなってきた。
 新しい機械は時速七十五マイルの強風にほとんど吹きとばされかけた。
 組み立てが完了すると、エンジンのテストをはじめた。とたんにトラブルがおこった。
 プロペラを動かす軸が折れてしまったのだ。
 シャニュートが二人の仕事の進行ぶりを見にやってきたが、寒い冬の中でのキャップ生活がひどくつらいうえ、軸がこわれたため実験がひどくのび、とうてい長居は耐えられないと感じたので、一週間で早々に立ち去った。
 兄弟が新しい、もっと上等の軸をデイトンから受取ったのは、十一月も末だった。
 二人が自転車商売を離れてあらしのふく寒い砂原に住みついてから、もう二ヵ月もたっていた。
 動力で動く飛行機をはじめてテストする準備が完了したころには、数日前から、雪とみぞれがはげしい北風に吹かれて降りはじめていた。
 またもや軸が折れたので、オービルは、丈夫な工具鋼で作った新しい軸を手に入れるため、一人デイトンヘ戻った。
 軸をもってキティホークヘ引き返す途中、彼は新聞で、一九〇三年十二月八日におこったラングリーの飛行機械の最後の災難の記事を読んだ。
 この機械は、発進装置からとび出したとたん、そのままポトマック川へ墜落してしまったのだ。
 アメリカで一番有名な科学者の一人が、政府とスミソニアン協会から豊富な援助を受けて研究したにもかかわらず、実験がこんなにみじめに失敗したことは、とりも直さずライト兄弟がこれからやるうとすることがどんなに困難かをまざまざと示すものだった。
 けれども同時にそれは、二人の勇気をいっそうかり立てた。
 二人はクリスマスは家ですごしたいと思っていたので、天候がよくなるのをいらいらしながら待った。
 十二月十四日、ひどく寒かったがよく晴れた。
 風はほとんどなかったので、砂丘の側面からとび立ってみることにした。
 どちらが乗るか、銅貨を投げてきめたところ、ウィルバーにあたった。
 半ダースのその地の住民たちが、兄弟に力をあわせ、飛行機を発進装置のところまでひきずっていった。
 発進装置は木でつくった長いレールで、自転車の軸からとったボール・ベアリングを入れた小さい車輪をもつ台車がレールの上を走るようになっている。
 ライトの飛行機はこの台車にのって、空中に飛出すしくみだった。
 兄弟は機を発進装置の台車にすえつけて、エンジンを始動させた。
 ウィルバーは操縦席に腹ばいになり、台車を止めているワイヤをはずした。
 プロペラの推力で、台車にのった機はレールの上を滑り出し、十分な速度のついたところで台車をはなれて上昇するはずだった。
 しかし飛出すのが早すぎて、失速し、四秒とたたないうちに地面におちた。
 小さい破損がいくつか生じた。
 兄弟はこのテストは本番の数に入れず、次の機会を待つことにした。

  17 ついに飛行機飛ぶ 

 


最初の飛行の写真、右に見えるのはウィルバー。キティホーク、1903年12月17日

 十二月十七日、キャップのまわりの水たまりはいちめん氷がはり、時速三十マイル(48km/h)近い風があった。
 二人は風がいずれやんで、昼近くになれば実験がやれるだろうと期待した。
 しかし風はおさまらなかったので、あえてテストを決行することにした。
 今回はオービルの乗る番だった。
 つきさすような寒さの中で飛行機の準備が整えられ、エンジンがウォーミング・アップをはじめた。
 数人の沿岸警備隊員と、一、二人の住民が見守るなかで、オービルは操縦席に腹ばいになった。
 発進装置は、飛行機が時速二十七マイル(43km/h)の風にまむかいにとびだすような方向に向けられていた。
 機の地面に対する速度はのろかったので、ウィルバーは、機が空中に浮き上がるまで翼の端を支えて傾かないようにしながら、四十フィート(12m)ほどつきそって走った。
 兄弟はあらかじめ、カメラのピントを発射レールの先端からちょっと向こうのところに合わせ、それを沿岸警備隊員の一人にわたして、機が地面を離れたらすぐシャッターをおすようたのんでおいた。
 その隊員はうまくやってくれたので、航空史上最も有名な写真(前ページ)が撮影された。
 機は十二秒間飛び、出発点から約一二〇フィート(36m)離れたところに下りた。
 それは、エンジンで動かされ、パイロットが乗って操縦する飛行機が、自身の動力で地面を離れ、空中でその速度を保ち、出発点と同じ高さの地点に着陸した、世界最初の飛行だった。
 その朝のうちに、さらに三回の飛行が行なわれ、最後の飛行では、ウィルバーが八五二フィート(255m)を五十九秒間で飛んだ。
 昼食をとり、洗濯をしたあと、兄弟は沿岸警備所へいって父へ成功を知らせる電報を打った。
 その電報がデイトンへ送られている途中、一人の電信手が、ライト兄弟がはっきり断ったにもかかわらず、この情報をバージニア州ノーフォークにある一地方新聞社に伝えた。
 このできごとに関するあきれるくらい不正確な記事(機は下向きの六枚羽根のプロペラを使って浮き上がり、一挙に三マイル(4.8km)飛んだという)がその新聞社の中で書き上げられ、あくる朝掲載された。
 編集者はこの物語の抜粋を二十一の他の新聞に提供した。アメリカ全国でたった三つの新聞が翌朝それを転載した。
 そんなものはのせる価値がないと判断した新聞の一つが、ライト兄弟の本拠地デイトンの新聞だった。
 この飛行に対する一般的な反応は、まず本当におこったのかどうかという疑惑であり、つぎに、たとえおこったとしても、ほとんど価値のないことだという判断だった。
 この第一号飛行機の建設とテストにかかった費用は、レール代やキティホークでの生活費までふくめて、合計約二百ポンドだった。
 すべてライト兄弟の手でまかなわれた。

 18 改良がすすむ、英米政府との交渉 

 今やライト兄弟は、飛行機が重要な輸送機関になるだろうと確信するようになった。
 特に、郵便輸送や探検に役立つだろうと思った。また敵の作戦行動をあばく軍用偵察機械に使えるにちがいない。
 二人がまず思いついたことは、この新しい空中兵器が戦争をいっそう困難に、または不可能なものとし、それによって戦争よりはむしろ平和の促進のほうに役立つだろうということだった。
 後になって、原子爆弾を発明した人々の一部も同じような考えを抱いたものである。
 兄弟はデイトン近くの野原を賃借りし、航空の仕事にいっそう多くの時間を割くようになった。
 それに比例して、自転車の商売はますます使用人の手にまかされ放しになった。
 一九〇四年と一九〇五年の間に、二人はいちだん進んだ機体とエンジンを作った。
 きりもみの問題も解決され、それによって急旋回ができるようになった。
 一九〇五年の末には自分たちの飛行場のまわりを三十八分間以上旋回し、のべ二十四マイルを飛んだ。
 世間はまだ彼らの飛行におどろくほどわずかの関心しか向けなかった。
 その理由の一つは、彼らが安全性にかたくななほど注意を払ったからだった。
 二人は、諸条件が完全に満足なものでないかぎり飛ぶことを拒否した。
 そのせいで、一九〇四年五月にテストに招かれた新聞記者たちは、風の状態が悪くていつまで待っても彼らが飛び立たないのに業を煮やし、あいそをつかして立ち去り、二度とやってこなかった。
 また墜落の危険をへらすため、機体を地面から十フィート(3m)から十五フィート(4.5m)の高さで飛ばし、それ以上高く上げることはほとんどなかった。
 この地面すれすれの飛行は、人目をひくはでなものではなく、見た人も多くはそれが本当に飛んでいるとは思わなかった。
 ライトの飛行に対する関心は、アメリカでこそ徐々にしか高まらなかったが、ヨーロッパでそれを見守る人々はもっと敏感だった。
 シャニュートは一九〇二年に早くも彼らの活動をロンドンの航空協会に報告しており、彼の紹介で協会の一会員がその年のうちにデイトンにやってきてライト兄弟に会った。
 接触は広がり、一九〇四年にはカッパー大佐がイギリス政府を代表し、タイトンにライト兄弟を訪問した。
 兄弟は、彼らのもつ特許、さらには末発表の空気力学上の知識が、大きな軍事的価値をもっていることに気づいた。
 そのころはライト兄弟は、一万ドルなら自分たちの特許と科学データを喜んで売って、あとはひっそり個人的な科学研究ですごしたい気があったらしい。
 しかしイギリス政府との討議が進んでいる間に、ライト兄弟は、自分たちの発明をまず祖国アメリカ政府に買わないかと申し入れるべきだと判断した。
 二人は一九〇五年に陸軍省に手紙を出し、軍需局長名の返事の手紙を受取った。
 それには、彼らの機械はまだ実際に飛べる段階に達していないように思われる、軍需局は飛行機械の開発のため補助金を出すつもりはないとあった。
 もちろんライト兄弟は、その一年も前から飛行を実行していたし、補助金を要請した覚えもまったくなかった。
 軍需局は、たくさんの変り者が飛行機械の提案を持ち込むのに閉口し、それを断るための定まり文句の手紙を用意していたようで、ライト兄弟もそういう連中の一人と思ってそれで片づけたつもりだったらしい。
 その年のもっと後になって二人はシャニュートにはげまされてまたアメリカ陸軍省にあてて手紙を書いたが、同じきまり文句を書いた同じような手紙を受取った。
 一九〇七年になって、ヘンリー・キャボット・ロッジと、当時合衆国大統領だったセオドア・ルーズベルトの仲介で、ライト兄弟は軍需局と交渉にはいった。
 二人は二万ポンドで軍需局のための最初の一機を作ること申し出た。軍需局はそれでは高すぎると考えた。
 そのころ兄弟はヨーロッパへ出かけて熱狂的な歓迎を受けており、各国の陸軍省は兄弟と熱心な交渉をはじめた。
 軍需局はそのニュースをきいて不安に感じだしたので、ヨーロッパにいるライト兄弟に手紙を出し、さきの兄弟の申し出に関心をもっていることを表明したが、二万ポットは予算をこえるので、議会の特別支出を必要とするだろうとのべた。

 19 フランス政府との接触 

 フランス政府はイギリス政府に次いでライト兄弟と秘密交渉をはじめた。
 フランス政府の指導者たちの多くさえ、この交渉のことは知らされなかった。
 交渉がはじまってかなり日数もたったころ、ライトをはじめて訪ねたイギリスの関係者がもう一度デイトンに現われて、何気なしに、フランスの使節はまだデイトンにいるかどうかたずねたが、その後になってさえ、まだ秘密は保たれでいた。
 ライト兄弟に対するフランスの関心がひどく高まったのは、もとフランス生まれのシャニュートの尽力による。
 パリにいるアメリカ人たちは、本国の友人たちに、ライト兄弟のことをもっとつっこんで調べるよう催促した。
 熱心家の一人にH・M・ウィーバーという工業家がおり、わざわざオービルに会いに行き、当人の姿を見て疑いはすべて氷解したと報告した。
 オービルは発明家や企業発起人というより’詩人みたいにみえた。
 実際彼はエドガー・アラン・ポーに似ていた。(オービルは大人になると早々口ひげをのばし、そのためいっそうポーそっくりになった。)
 彼は自分の仕事についてはけんそんな口ぶりで話した。
 ウィルバーのほうは、学者か世捨人のようにみえた。
 ウィーバーの質問に答えて、ウィルバーは、兄弟のどちらも結婚していない、妻と飛行機械の両方を養うことは経済的にどちらの手にも余るからだ、といった。
 ライト兄弟の成功に対する疑惑はなお消えなかった。
 それは彼らが、そういう重要な質問者のだれにも自分たちがもつ基礎的科学情報をもらそうとせず、また自分たちの飛行機をわざわざ飛ばしてみせようとはしなかったからだ。
 二人は自分たちの発明を盗まれたくないと思っていた。
 二人は、彼らにかわって世界じゅうの政府からの照会を処理できる金融代理人を雇うのがよかろうと結論した。
 必要な契約がすむとすぐに、その代理人会社のヨーロッパ代表者は、ライト兄弟のうちの一方か早急にヨーロッパにきてほしいと打電した。
 ウィルバーは一九〇七年五月にヨーロッパへ向けて旅立った。
 金融代理人はユーストン駅へ行って、ウィルバーがリバプールからついた汽船連絡列車から下りるのを出迎えた。
 彼はやせた背の高い男がプラットホームを歩いてくるのを見たが、その目に光る天才のひらめきが直ちに何者であるかを教えた。
 ウィルバーはスーツケース一つしかもってこなかったので、代理人は彼をストランド街へつれていって、イブニング・ドレスをいくつか買わせた。
 ウィルバーとほんのちょっとでも一緒にいたら、だれでも否応なしに、彼がペテン師でないこと、彼のいうことは信用せずにいられないことを、さとらないわけにいかなかった。
 一、二日のうちにウィルバーはさらにパリヘわたった。
 ここではある新聞記者が、ウィルバーは自分の機械については極度に用心深い話し方をするが、一つ質問がおわるたびに、彼のきれいに剃った顔が、大まかな、スフィンクス様の微笑にもどると報告している。
 オービルはパリでウィルバーと合流し、兄弟はドイツ政府と交渉するためベルリンへすすんだ。
 二人はその年の末にアメリカへ帰った。
 そのころには、アメリカ陸軍省も事態をもっとよく認識するようになっていた。
 陸軍省はライト兄弟しか作れないような明細を指定して、一台の飛行機の入札を公告した。
 しかし兄弟が当惑したことに、四十一件の申込があった。大部分は変り者(クランク)からのものだった。
 ついに大統領ルーズベルトが介入し、アメリカ政府のため一台の飛行機をつくる契約が一九〇八年、ライト兄弟との間に結ばれた。
 ライト兄弟はウィルバーがまたヨーロッパヘいって飛行機を実際に飛ばしてみせ、一方オービルはアメリカに止まってアメリカ政府のための新しい飛行機をつくることにきめた。

 20 フランスでの展示飛行 

 ウィルバーは一九〇八年五月にフランスに着き、約一年前からケースに入れたままフランス税関にあずけっぱなしになっていた機体を取戻した。
 適当な飛行場はないかとさがしたところ、パリに近いルーマンの自動車レースのコースがみつかった。
 ウィルバーはケースを開いてみて、機械の部品がすさまじい状態になっているのを見いだした。
 多くはこわれており、何かにぶっけられたようにみえた。
 彼はオービルにあてて興奮した手紙を何通も送り、機械が正しくこん包されていなかったらしい、これで自分の立場はひどく困難になったと、泣言を並べた。
 ウィルバーはフランス語が話せないので、フランス人の機械工は彼のいうことがわからないし、第一この新しい機構や部品は見るのもはじめてだった。
 ウィルバーはほとんど何から何まで自分でやらなければならなかった。
 オービルは、フランス税関がケースをあけてしらべたあと、中身をめちゃくちゃに投げこんで包み直したせいだろうと推察したが、そのとおりだった。
 機械の隅々まできわめて慎重に点検しテストしたあと、ウィルバーはフランスでの自分の第一回の飛行の準備を整えた。
 彼は飛ぶときはいっもふだん着のグレーのスーツで、糊のついた高いカラーをつけ、鳥打帽をかぶった。
 この態度は自信のほどを示すものだが、疑いはまだ広く残っていた。
 やがて彼は操縦席にのぼり、発進装置の止めワイヤをはずした。
 機はらくらく空中に上昇し、パイロットの意のままに操縦されながら、急旋回を何度もやった。
 航空の熱心家たちはすぐさま、この機械が以前にみたどの飛行機よりはるかにすぐれた性能をもっていることを悟った。
 ウィルバーはたちまち最も有名な時の人となった。
 彼の性格と態度が人気をいやが上にも高めた。
 彼は格納庫のなかで愛機のとなりで寝た。ジャーナリストとも仲よく、彼らを追っぱらうどころか、道具をはこばせたり奇妙な仕事の手伝いをさせた。
 記者たちは彼の読書のゆたかさ、一般的知識の広さにびっくりした。
 彼は、航空のことと、自分たち兄弟の業績に関する秘密のほかなら、なんでも喜んで話した。

金持のアマチュアになれていたフランス人の機械工たちは、ウィルバーが自分の手で仕事をするのに強い感銘をうけ、労働者が仲間におくるような、署名入りの表彰状を贈った。

 子供たちはみな通りで彼に会うと、心からの微笑をなげかけ、「ボンジュール、ムシュ・ライト」と挨拶するのだった。

 有名人たちが、同乗飛行にのせてもらおうと思ってルーマンまでやってきた。

 イギリスから真先にやってきて飛行機を見て、乗せてもらった人々のなかには、C・S・ロールス(一八七七~一九一〇。ロールズ・ロイス自動車会社の創設者。後にイギリス最初の飛行機事故で死亡)やべーデン・ポーエル(一八五七~一九四一。軍人でボーイスカウトの創設者)がいた。

 秋になると、オービルと妹がウィルパーのところにやってきた。

 ウィルバーは妹に、いまフランスであたえられているような歓待になれてしまうと、あとオハイオ州で彼女のつつましい教師のサラリーで暮らすことが嫌になりはしないかと、いましめた。三人は冬をすごすために、ピレネー近くのポーにある暖かい宿所に移った。

 イギリス国王エドワード七世はビアリッツから車をとばしてやってきて、彼らに会い、飛行機が飛ぶのを見た。

 アーサー・バルフォア氏(一八四八~一九三〇。首相、外相等を歴任)やノースクリッフ卿(一八六五~一九二二。新聞事業家)もあらわれ、ウィルバーが飛行機を綱で引っぱって発進装置に引き上げるのを手伝った。

 ウィルバーはひんぱんに父に手紙を出し、そのときどきの体験を詳しく知らせた。彼は父に、何人かの熱心な若いフランス人に飛行術を教えていると語っている。

 しかしその中の一人は、「タバコ気ちがい」なので、はたしてよいパイロットになれるかどうかと、彼は本気で疑っていた。

 兄弟は今や全世界から称賛のまとになっていた。

 しかしどの面からみても彼らは、いくら有名になろうが平素の単純さとつつましさになんら影響をこうむらなかったことが見てとれる。

 


左から、オーヴィル・ライト、ウィルバー・ライト、
イギリス国王エドワード七世。
フランスのポーで, 1909年3月17日

 21 ライトの会社ができる 

 話は少し前にもどり、一九〇八年の春にウィルバーがフランスへ向かって旅立ったあと、オービルはアメリカ政府のための飛行機を作りあげ、ワシントン近くの長さ一千フィート(300m)、幅七百フィート(210m)しかない原っぱで展示飛行をした。
 このほとんど信じられないほど狭い空間で、オービルは一連の新記録を次々に出した。
 最高は原っぱを七十一回旋回し、一時間十五分飛び続けたことであった。
 しかし次の飛行で惨事がおこった。オービルは二十六歳の陸軍士官トマス・セルフリッジを同乗させていた。
 数分飛んだところで、故障が生じ、機は墜落した。
 後になって、原因はプロペラの一つか裂けたためとわかった。
 セルフリッジは墜落機から引き出されたがまもなく死んだ。
 オービルは片脚を折り、肋骨四本を折ったと思われた。
 回復はわりあい早かったが、ひどい痛みになやまされた。
 十二年後になって、X線で徹底的にしらぺた結果、ほかに腰骨三木が折れ、一本が脱臼していたのがはじめてわかった。
 見かけの回復の後、オービルはフランスへわたってウィルバーと一緒になったのだが、その後は生涯脊柱を支える特別のチョッキを着なければならなかった。
 兄弟がヨーロッパから帰国すると、ピーターキンという若い金融家が、飛行機会社をつくろうという案をたずさえて接近した。
 ピーターキンはまだたった二十四歳だったか、十五歳のときJ・P・モルガンの給仕をつとめたことがあった。
 彼はコーネリウス・バンダービルトその他の有力者たちの関心をライトの発明に向けさせた。
 こうして一ヵ月とたたないうちに、彼らの飛行機を製造する「ライト会社」がウィルバーを社長として設立された。
 一九〇九年のことである。最初の数年間は、競技会用に多数の飛行機が売れたため、会社は格別大きな利益をあげた。
 彼らは多くの賞を勝ち取り、いろいろな国から特許使用料を支払われた。
 イギリス政府は彼らに一万五千ポンドを払ったが、これは当時にあっては相当な金額だった。

 22 隠退と死 

 こうしてライト兄弟はかなりの富を獲得したので、さっそくに、個人的な科学研究に没頭できる十分な資産をもって隠退するという、年来の希望がみたされるのを楽しんで待つようになった。
 しかし兄弟のどちらもが、自分たちの特許を守るため極力奮闘しなければならなかった。
 ウィルバーは何人かの侵害者に対し、訴訟手続をすすめるためヨーロッパヘいった。
 彼はこのうんざりする細々した仕事に疲れきった。
 腸チフスにかかったが、それに抵抗するだけの体力はもはやなかった。
 彼は一九二一年五月三十日にデイトンで死んだ。四十五歳だった。
 ウィ儿バーの遺言状は死のたった十日前に書かれた。
 彼は二人の兄と妹にそれぞれ一万ポンドをおくり、父には、必要な何かの小さなぜいたく品を買うために、二百ポンドをおくった。
 財産の残りはオービルにおくった。
 オービルはこれを使って、もしも二人とも高齢まで生きられたら必ずや一緒にやっただろうことを、一人でやるだろう――ウィルバーはそれを知っていたのだ。
 ライト監督は日記に、ウィルバーが「誤りのない知性、沈着な気質、大きな自信と、それと同じくらい大きな謙遜」をもっていたと書いた。
 彼は別の箇所でもう一度、ウィルバーの記憶力のよさ、知性の強さ、組織化の能力、談話や文章での表現力、無口、冷静沈着な気質のことを書きとめている。
 オービルは自分がもつ工業上の諸利権を一九一五年に処分したあと、残る三十三年の生涯の大部分を、ライト兄弟が一番先に飛行を成就したという優先権を防護することにささげた。
 彼は自分の財産を慎重に倹約して使い、一九四八年一月三日にデイトンで死んだとき、二十六万七千ポンドの遺産を残した。

 23 ラングリーの飛行研究とその失敗 

 特許権を守るうとする心くばりは、たぶんウィルバーの最期を早めたものだろうが、オービルをも、科学技術史上最も異常な事件の一つにまきこんだ。
 ラングリーは一九〇三年に、二回にわたって飛行機械の実験を行なった。
 前にのべた、二回目の無残な失敗のあとは再起できず、失意の人として一九〇六年に死んだ。
 しかし彼の科学の友人の一部、特に彼のあとをついでスミソニアン協会の会長になった人は、ラングリーが、自力でとべ、パイロットがのって操縦できる最初の機械を作ったのだと信じこんでいた。
 ラングリーの時代にあっては、スミソニアン協会の会長はアメリカ科学を公式に代表する最高位者とみなされた。
 その会長ラングリーが、動力で動く飛行機械が可能だと信じたという事実は、航空のパイオニアたちにとって大きな励ましとなった。
 ライト兄弟も、ラングリーの仕事がこの面で航空に大きな寄与をしたことに、深い感謝の意を表明した。
 ラングリーは、飛行機が可能だという兄弟の信仰をいっそう強めるはたらきをしたのだった。
 ラングリーは空気力学を広範囲にわたって研究した。
 そのなかには、役に立つ結果もいくつかふくまれていたが、重大な欠陥もあった。
 彼は種々様々な型のエンジンをつくる実験を指導し、かなり多額の資金と、すぐれた技術の助手を自由に使うことができた。
 スミソニアン協会はワシントンの中心にあったから、彼の仕事は大きな注目をひいた。
 アメリカ・スペイン戦争が一八九八年にはじまると、ラングリーは、この戦争に使えそうな飛行兵器を考案するよう懇請された。
 実験研究のため一万ポンドがあたえられた。
 彼は自分の研究結果を基礎として、パイロットが乗って飛ぶ大きな飛行機を設計した。
 それを四分の一に縮小した、パイロットなしの模型は、ワシントンのポトマック川の上を一千フィートもつづけて飛ぶことに成功した。
 この成功で、大きい機械がうまくいきそうな希望が高まった。
 目方がたった二〇七ポンド(93kg)で、五十四馬力も出す五シリンダー星型エンジンがスミソニアン協会の工場で建造された。
 これは偉大な作品で、時代を十年も先んじたものだった。
 ラングリーは、ポトマック川に大きな屋台船を浮かべて、その屋根の上に高い台をつくり、その上から自分の飛行機を飛び立たせることにした。
 しかしいよいよ機械がスタートしたとき、発射台にひっかかって、めちゃくちゃになり、まっすぐ川の中へおちこんだ。
 たくさんのジャーナリストが実験を見に集まっていた。
 彼らはこの大失敗をあざ笑い、飛行を試みた人々を気ちがいとののしった。
 ラングリーはひどいショックを受け、落胆し、三年後に死んだ。
 彼が失敗した原因の一つとして、滑空の体験が全くなかったことがあげられる。
 すでに年をとっていたので、できなかったのだ。
 もう一つの原因は、技術上の洞察が欠けていたことである。
 彼は模型から得た実験結果を、どうすれば実物大の機械に正しくあてはめられるかを、まだ発見していなかった。
 そのうえ彼の空気力学上の純科学的な研究にすら、重大な欠陥があったのだ。
 ラングリーの失敗は、大衆にも政府当局者にも、航空について大きな偏見をいだかせる結果になった。
 なにしろ、アメリカ上下両院議員全部が集まるワシントンでおこったことであった。
 ライト兄弟が人々に自分たちの成功を理解し認識してもらうのに大変苦労した原因の一つは、ここにあった。

 24 ラングリー機の修理と再実験 

 ライト兄弟の成功とラングリーの失敗という、このびっくりするようなコントラストは、ラングリーがすぐれた科学者であるだけに、世人にライト兄弟の成果と天才のすばらしさを、くっきり示したものといえよう。
 ところが実際は、その後長いあいだ、人々はそう認めなかった。
 紋切型の科学者たちは、ラングリーの失敗で自分たちの威信が傷つけられたと感じていたから、門外漢のライト兄弟の成功はむしろ腹立たしいものであった。
 ライトが自分たちの科学研究をまるきり公表しないので、科学者たちはライトの成果を単なる偶然のできごとと考えがちだった。
 しかし彼らが広範な科学研究をやったことがだんだんはっきりしてくると、アカデミックな科学者たちはいっそう頭にきた。
 というのは、科学研究を公表しないことは学者仲間のしきたりに反するものだったから。
 ラングリーの友人たちや、あとをついだスミソニアン協会会長は、ラングリーの機械が本当は「飛行可能な」世界最初のパイロット操縦機械であって、実験のとき墜落したのは本質に関係ない事情によるのであり、機械自体に根本的欠陥が一つでもあったからではないということを、実証しようとしはじめた。
 つまリ彼らは、実験が無残に失敗したにもかかわらず、ラングリーを飛行の父とみとめ、その優先権を確立しようと努めたのだった。
 ラングリーはこの努力がはじまる前に死んでいた。
 彼自身は、ライトの業績の価値を低めようという努力はけっしてしなかった。
 一九一〇年にスミソニアン協会会長はライト兄弟に、彼らの飛行機の模型を国立博物館に「最も興味ある見本の一つ」として展示するので、送ってくれるよう懇請した。
 ウィルバーはそれに答えて、一九〇三年の最初の機械の部品がまだキティホークにおいてあるので、これを再組立して送るうと申し入れた。
 しかし会長がそれを望んでいないことがはっきりした。
 会長の関心はそれよりも、ラングリーの飛行機械を、ライトより先行した発明として展示することだったのだ。
 それでライト兄弟はもとの飛行機を送らなかった。
 こういった科学界のできごとと平行して、工業上のライトのライバルたちが、新生の航空産業に進出しようとあくせくしていた。
 しかし彼らは、ライトがもつ特許をどうしても避けられないのを知った。
 そこで彼らは、科学者たちと手を組み、科学者たちがライトの優先権をひっくり返そうと努めるのを後援した。
 そういう飛行機製造業者は、スミソニアン協会会長に接近し、ラングリーの古い機械を博物館からとり出して、組み立て直して動ける状態にもどし、本当に飛べることを実証すべきだと示唆した。
 この提案が受入れられ、一九一四年に実行された。
 ラングリーの機械は水上機の形で使われ、湖の水面の上を、約五秒間飛ぶことに成功した。
 スミソニアン協会はその報告書を発表し、この実験によりラングリーの機械が「人をつんで持続した自由飛行のできる最初の飛行機」であることが確証された。
 したがってそれは「世界史上最初の飛行機と正しくいうことのできるもの」だとのべた。

 25 ライト機イギリスへわたる 

 けれども時がたつうちに、ラングリーの機械がそのテストのために大幅に修正改造されたことがわかってきた。
 設計中の三十五ヵ所にわたる重要な特徴が変更された。
 実に、ライトの特許の一つである補助翼まで、新たにつけ加えられていた。
 スミソニアン協会はこれらの変更の大部分、特に基本的なものについては、ほおかぶりをきめこみ、報告書の中にのべなかった。
 一九一六年、スミソニアン協会の評議員の一人だった電話の発明者アレグザンダー・グレアム・ベルはたまたまマサチューセッツ工科大学に展示されたライトの最初の飛行機をみた。
 彼はオービルに、なぜそれが国立博物館におかれないのかときいた。
 オービルは、スミソニアン協会がそれを欲しないからだと答えたので、ベルはびっくりした。
 一方、ロンドンの科学博物館の当局者は、ライトの第一号飛行機か倉庫におきっぱなしになっていて、火事でもおこったらなくなってしまうおそれがあるのを知った。
 彼らはその機械をロンドンの科学博物館に飾れないものかどうか問い合わせた。
 アメリカの関係当局は態度をかえるそぶりを全くみせなかったので、オービルは一九二三年になって機を科学博物館に貸すことにきめた。
 しかしそれを送りだす前に彼はもう一度、スミソニアン協会の名誉総裁、司法長官W・H・タフトにあてて問題を提起したが、タフトはそれに答えて、自分はスミソニアン協会に関しては名目的な地位についているだけであり、そういう特殊な事情を調査するひまはないとのべた。
 一九二七年にスミソニアン協会会長が死に、新しい会長が任命されたので、納得できる事態の解決が得られるチャンスが生じたように思われた。
 しかしオービルは、論争にけりをつけることを避けようとする努力がなお、続いていることがわかったので、ついに一九二八年に飛行機をロンドンの科学博物館へ送った。
 それは少なくとも五年間そこにおく、そして彼の生存中に合衆国に送り返されることがないかぎり、永久にそこにおく、という取決めだった。
 ライト機がアメリカを去ったことは、アメリカ国民の自尊心を傷つけた。
 人々はアメリカ人が動力で動く機械を発明したことをまのあたり見て確かめたいと願い、ライト機を取り返そうという大衆の要求が高まった。
 多くの人々がオービルに手紙をよせて、彼が飛行機をロンドンへ送ったことをなじった。
 それに対して彼は答えた。――
 自分の行為は、スミソニアン協会が出した誤った声明のために、事実に反するものになってしまった飛行機械の歴史を、訂正するただ一つの方法だと信じる。
 スミソニアン協会は他の人々の信用をおとそうとキャンペーンにつとめ、数十の間違った声明を発表したが、それらは記録から直接反証できるものである。
 けれども人々は証拠を調べる労力をとらなかった。
 こういった事情のなかであの飛行機がアメリカ国内のどこかの博物館におかれていたら、国民の自尊心は正しい歴史的事実を確立しないでも満足させられるだろう。
 そうなれば、それ以上のことはなんにもなされず、スミソニアン協会はなおも間違ったプロパガンダを続けるだろう。
 けれども、もしもあの飛行機が外国の博物館にある
 ならば、アメリカ国民はなぜそれがそこにあるのかという理由をいつも思い出させられるだろうし、「今の時代の人々と、かなりのやきもちとが世を去った後になって、将来の歴史家が公平無私に証拠を検討してそれに合致する歴史を書いてくれるだろう。」
 彼は結びに、あの古い機械がアメリカを離れて残念だという手紙をよせた人々の嘆きは、たぶん自分の嘆きほどは大きくないだろう、といいそえた。
 年がたつとともに、ライト機がアメリカ国立博物館にないことに対する大衆の怒りは高まった。
 それをアメリカへ運び戻し、人目をひく名誉ある場所におくべしという主張がふえていった。

 26 歴史の訂正――ライト機の帰還 

 しかしオービルは、スミソニアン協会がその誤った声明を完全にとり消すまでは、飛行機をはこび返すことをけっして承知しなかった。
 一九四二年になって、ついにスミソニアン協会は声明をのこらず撤回することに同意した。
 ここで協会はラングリーの飛行機械に加えられた三十五ヵ所の変更を一つ一つ認め、「誤解に導きやすく、またはライト兄弟に有害な効果をあたえたと思われる」行為と主張をしたことに対し、深甚な遺憾の意を表した。
 そして協会は、ライト博士がこの陳謝を認めて「全世界が第一位と認めるキティホークの機械をアメリカに戻すようにしていただきたい」という希望を表明した。
 これは「彼の同国人全部にとって、深く永続する感謝の源泉」となるであろう。
 オービルが、ほとんど国民こぞっての誤解のただなかで、ひたすら歴史的真実を確立するため長いたたかいをつづけたことは、ライト兄弟の性格の偉大さをもう一つの面から明らかにするものだった。
 彼が不退転の決意をもってこの原理的問題に対処した態度は、家族全体の中に単純で深遠な道徳的真理をきびしく守る習慣を確立した父ライト牧師の影を反映しているようにみえる。
 オービルは自分の主張によって、歴史的事実を確立したばかりでなく、アメリカ国民の道徳的基準と批判的意識の向上に貢献した。たぶんこれを、彼の後半生の主要な業績とみなしてよいだろう。
 オービルはこれで、最初の飛行機をアメリカヘ戻すことを承諾した。
 けれども第二次世界大戦からおこったいろいろな問題のため、これをワシントンの国立博物館に正式にすえつけることは、一九四八年十二月十七日の第一回飛行の四十五年祭まで待たなければならなかった。
 それはオービルが死んでから、一年近くも後のことであった。

 27 兄弟の性格と協力 


 ライト兄弟はたくさんの賞や栄誉を受けたが、いつも二人が分かちあうべきだと主張した。
 ウィルバーがフランスにいるとき、レジョン・ド・ヌール勲章を授与するという申し出があったが、彼はオービルにもあたえられるのでなければ受けられないといった。
 パリのある表彰式で、ウィルバーに二万フランの賞金がおくられたとき、彼は列席者の見ている前できまじめにそれを二つに分け、一つを隣りにいるオービルにわたし、残りを自分のポケットに入れた。
 ウィルバーが生きている間は、年上だから当然のことだが、彼が行動の指揮をとる習慣だった。
 けれども兄と弟は、それぞれちがった方向に、同じように強い個性をもっていた。
 オービルは霊感がゆたかで、機械的なアイディアをよく思いついた。
 彼は科学的な想像力にすぐれていた。
 しかし自分のアイディアをがっちり組み立てたり、詳しく解釈したりする執着力に乏しかった。
 兄よりも三十六年も長生きしたが、自分たちの生涯と仕事について、要領よい解説を書くことができなかった。
 二人が協力した間は創造的イニシアチブの面で分担を十二分に果たしたが、兄が死んだあとは、重要な航空上の発明は一つもしなかった。
 ウィルバーは批判的、実行的な才能がすぐれていた。
 彼はオービルと自分のアイディアを具体化し、発展させた。
 明確透徹な文体で多くの文章を書いたが、それらは空想ゆたかな展望と深い哲学的含蓄をもっていた。
 たとえていえば、兄弟それぞれの性格が、互いに相手の中に火をつけ、両方が合わさって創造の炎となり、それが人類の努力を導く新しくて深い道すじを焼き開いたようにみえる。
 彼らの仕事は、思考と費用を極度に節約したおどろくべき事例で、文字どおり科学的エレガンスの典型であった。
 兄弟は近代アメリカの機械文明の中に生き、それに特徴的な技術上の観念と展望をのこらず身につけていた。
 しかし彼らは、アメリカの商業主義に対処する能力を十分そなえていたとはいえ、それから一歩はなれたところにいた。
 商業主義のまっただなかにはいても、その虜(とりこ)にはならなかった。
 この商業主義からの超越が、彼らの成功にあれほど大きく貢献したのだが、この態度を生んだ主な原因の一つは、彼らが受けた特別な宗教的教育に求められよう。
 彼らの精神的な背景はどちらかというとファラデーのそれに似ている。
 また、自分自身の手を使った仕事を基礎にして、将来の理論と方法を見通す才能も、ファラデーのそれに似ていなくはない。
 これまでライト兄弟をたたえて多くのことがいわれ、書かれてきた。
 しかし彼らの真価はこれまでに授けられ、これからも授けられるだろうもろもろの賛美だけでつきるものではない。


  参考文献 top

 F・C・ケリー『ライト兄弟』G・G・クフップ社、1944年。
 F・C・ケリー編『キティホークの奇跡――ライト兄弟書簡集』ファラー・ストローズ・ヤング社、1951年。
 マービン・W・マクファーランド編『ライト兄弟論文集』2巻、マグロー・ヒル社、1953年。
 J・L・プリッチャード『ライト兄弟と王立航空協会』王立航空協会雑誌、第57巻516号(1953年12月)所収。

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